LOGIN『透に負担をかけたくない』という私の言葉は、数日のうちに社交界の噂の中で、こう変換されて広まるだろう。
――水科の令嬢は、天野家で透様に相手にされず、寂しさに耐えかねて毎晩泣いている。透様はただ同情で借金の肩代わりをしただけで、彼女を妻として扱っていない。 私が自分で言った言葉が、私自身を「不要な存在」として追い詰めるための刃に作り替えられていく。 怒りで、膝の上に置いた手が震えそうになった。 ここで「そんな意味で言ったのではありません」と反論すれば?『図星を突かれて感情的になった』『天野家の客人に口答えをする無作法な娘』として、さらに悪い噂が上乗せされるだけだ。 逃げ道がない。 悪意ある要約によって、私の存在が透明な箱の中に押し込められ、空気が薄くなっていく感覚。「お母様」 私は、震えそうになる声帯を意志の力で完璧に制御し、テーブルの上のティーカップを見つめたまま口を開いた。「私への過分なご心配、痛み入ります。ですが、透様はただの同情で動かれるような、思慮の浅「……透さん?」 顔を上げると、いつの間にか下のコンビニに行っていたらしい透さんが、私のデスクの横に立っていた。 彼の手には、自分の分のサンドイッチとコーヒーが握られている。「休憩だ」 彼は短く言い、私のデスクに置かれた紙コップを指差した。「ほうじ茶だ。コーヒーより、胃に負担がかからないと思って」 それから、白い紙袋の中身。 紙袋の中には、卵サンドが入っていた。「……私、今、あまりお腹は」「空腹だと、大事な話を聞き漏らす」 透さんは私の言葉を遮るように言った。 私はほうじ茶の紙コップに手を伸ばした。 温かさが、冷えていた指先にゆっくり戻ってくる。「……ありがとうございます」「いや」 透さんは自分のデスクに戻り、サンドイッチの封を切った。 私たちは無言のまま、ただ遅い昼食のようなものを胃に流し込んだ。 しばらく、紙の擦れる音だけが続いた。 ほうじ茶を飲むうち、浅かった呼吸が少しずつ元に戻った。 外が暗くなり、事務所の蛍光灯が青白い光を落とすようになった頃。 再び、デスクの固定電話が鳴った。 午後七時。 私は反射的に受話器を取った。「はい、水科です」 電話の向こうは、昼間情報を繋いだ管轄の児童相談所の担当者だった。『児童支援基金さんですか。昼間の件で、ご連絡です』「はい。どうなりましたか」 私はボールペンを握り直した。『先ほど、警察と同行して家庭訪問を行いました。……詳細は個人情報のためお伝えできませんが、児童本人の安全は確保されました。現在は、こちらで一時的に保護しています』 安全は、確保された。 その言葉を聞いた瞬間。 握りしめていたボールペンから、ふっと力が抜けた。 それ以上は尋ねなかった。 受話器の向こうから伝えられたのは、それで十分だった。「&
急に静かになった。 その言葉が耳から入った瞬間。 私の足元から、急速に温度が失われていく感覚があった。 カビと煙草の匂いが、一瞬だけ鼻の奥に戻った。 暗い部屋。届かなかった泣き声。「……ッ」 呼吸が浅くなる。 ボールペンを握る指に力が入り、紙の上の黒い染みが少し広がった。「……凛花」 すぐ隣で、低い声がした。 透さんだった。 彼は私が受話器を持ったまま固まっているのに気づき、椅子から立ち上がって私の横に立っていた。 彼の大きな手が、私のデスクの縁をそっと握っている。 私から受話器を奪い取ろうとはしない。ただ、そこにいることだけを知らせるように、視線を私に向けていた。「続けられるか?」 ひどく静かな、確認の言葉だった。 デスクの縁に置かれた彼の手と、低い声が、インクの匂いのする現在へ私を引き戻した。 私は大きく息を吸い込み、冷たくなった指先に力を込めた。「……大丈夫です。続けます。無理なら、言いますから」 透さんは小さく頷き、自分の椅子へ戻った。 資料へ視線を戻したあとも、私が話し始めるまで彼はページをめくらなかった。「お待たせしました」 私は受話器に向かって、呼吸を整えた。仕事の電話に出ていた頃の、平坦な声を意識する。『もしもし? 大丈夫ですか?』「ええ。情報の詳細をお願いします。最後に泣き声が確認されたのは、具体的にいつの何時頃ですか?」 私はボールペンを走らせる。 紙とペン先が擦れる、カリッ、カリッという音が、私の輪郭を確かめるように響く。「確認します。……『火曜日の午後十時頃まで泣き声あり』。それ以降は無音。『水曜日から学校を無断欠席』。保護者との連絡は取れていない。……以上で間違いないですね」『はい。ご近所の方も、何かあったんじゃないかと不安がっていて……
安いコーヒーメーカーが、ゴボッ、という不格好な音を立てて黒い液体を吐き出していた。 焙煎の少し焦げたような匂いが、真新しいだけの狭い事務所に充満していく。 手元のマグカップは、近くの量販店で適当に揃えたもので、分厚く、少し重い。天野の本邸で使われていた、透き通るように薄いマイセンのティーカップとは比べ物にならないほど無骨だった。 けれど、その分、熱いコーヒーの温度が手のひらにしっかりと伝わってくる。 都心から少し離れた、雑居ビルの二階。 壁際によくあるスチール製のキャビネットが並び、中央には事務用の白いデスクが島を作っている。 ここで児童支援基金が正式に動き出してから、数か月が経っていた。 完璧に管理され、塵一つ落ちていなかった天野家の執務室に比べれば、ここはひどく雑然としている。デスクの端にはコピー用紙の束が積まれ、未処理のファイルがプラスチックのトレイに投げ込まれていた。 その雑然さを、私は嫌いではなかった。「……ここの文言、少し直しますね」 私は手元のパソコンの画面から視線を外し、隣のデスクに向かって言った。 隣で大量の資料の束に目を通していた透さんが、顔を上げる。 彼は今日もノーネクタイで、少し袖を捲ったシャツ姿だった。右腕の火傷の痕は、初夏の明るい日差しの中で、隠されることもなく晒されている。「どこの部分だ」「提携先のNPOに送る、事前面談のフォーマットです。『保護者への連絡を前提とする』だけだと、本人からの相談を受けにくい場合があります。ここ、相談員の判断で別の窓口へつなげられるようにしておきたいんです」 透さんは手元の資料を置き、私のモニターを覗き込むように身を乗り出した。 微かに、彼のシャツからシトラスの香りが漂ってくる。「……なるほど。その方がいい。変えよう」「はい」 私はキーボードを叩き、文字列を修正した。 カチャカチャという、プラスチックの乾いた音が響く。 基金の仕事は、拾った情報を整理し、必要な専門機関へ途切れずにつなぐことだった。
私の手の中にあるのは、具が少しだけはみ出した、明らかに小さい方だった。 透さんの左手には、皮がたっぷりと残り、重量感のある大きい方が握られている。 透さんは自分の手の中の断面と、私の手の中の断面を、交互に見比べた。 そして、考えるよりも先に、反射的な動作で、自分の手にある大きい方を私の方へ突き出してきた。「こちらを」「え?」「君の方が小さい。取り替えるべきだ」 彼の瞳は真剣そのものだった。 迷いのない動きだった。「半分に割る約束でしたよね」 私は自分の手にある小さい方を、彼の前に掲げてみせた。「どう見ても、これは半分ではありません」「……あぁ」 透さんの顔に、目に見えて焦りの色が浮かんだ。「すまない。左手だけだとうまく力が入らなかった。次は、もう少し正確に割る」「そこまで正確じゃなくて大丈夫です」「だが、不公平だ」「怒られると思いました?」 私が不意に尋ねると、透さんの唇が微かに引き結ばれた。 病室で、均等でなければ私に怒られるかもしれないと、真顔で心配していた人だ。「……君は、適当なことを嫌う」「怒るところを少し間違えています」 私は笑いを噛み殺しながら、彼の手の中にある大きい方の肉まんをじっと見た。「取り替えませんよ。私が自分で引いたんですから。透さんは、それを食べてください」 透さんはまだ納得がいかない様子で自分の手の中の肉まんを見つめていたが、私が先に小さい方を口に運んだのを見て、ようやく諦めたように左手を顔に近づけた。 はふ、と皮を噛みちぎる。 熱い餡が舌を焼き、濃い肉の旨味と玉ねぎの甘さが一気に口の中に広がった。 湯気が鼻の頭を撫でていき、冷え切っていた頬の皮膚が、内側からじんわりと温まっていくのがわかる。 熱さと、少しの甘さ。「……おいしい」 ただ、それだけが口からこぼれた。 飾らない、ありふれた
大通りに出ると、車の排気ガスと、冷たいアスファルトの匂いが混ざり合った風が頬を打った。 交差点の角に、見慣れた看板が光っている。 自動ドアの前に立つと、ウィーンという軽い電子音とともに、人工的な暖気と、おでんの出汁の匂い、そして微かな揚げ物の油の匂いが押し寄せてきた。 完璧に空調が整い、防虫剤と清潔なリネンの匂いが漂っていた天野の本邸とは、まるで違う空気だった。 透さんは自動ドアの敷居を跨ぐ時、まるで未知の領域に踏み込むかのように、少しだけ肩を強張らせた。 普段の隙のないスーツ姿ではなく、今日はシンプルなニットの上にコートを羽織っているだけのラフな格好だというのに、彼の周囲だけ、空気が数度下がっているような錯覚を覚える。 店内に響く陽気なBGMが、彼の硬い表情とちぐはぐで、なんだかおかしかった。 私たちはレジ横の保温ケースの前に立った。 曇ったガラスの向こうに、丸みを帯びた白い塊がいくつも並んでいる。 私はバッグを足元に置き、財布を取り出そうとしたが、透さんが無言で一歩前に出た。 彼はガラスケースの中を、まるで企業の買収案件の資料でも読み込むかのように、真剣な眼差しで凝視し始めた。「……種類が多いな」 低い呟きが落ちた。「肉まんだけで、こんなにあるのか」「季節によって変わるんです。どれにしますか?」「君の希望に合わせる。……どれが普通なんだ」 店員がレジの奥から不思議そうな顔でこちらを見ている。 私はこみ上げてくる笑いを必死に腹の底へ押し込んだ。「一番普通のでいいです」「だから、その普通はどれだ」 透さんが真顔で私を振り返る。「透さん」「なんだ」「一番右上の、百五十円の肉まんです」 私が指を差すと、透さんはようやく納得したように頷き、店員に向かって「一番右上のものを一つ」と告げた。 手慣れない手つきで左手だけで財布から小銭を取り出し、会計を済ませる。 渡された小さな白い紙袋からは、じんわりとした熱
自動扉がスライドする低いモーター音が響き、淀んだ暖気が背後から押し出される。 一歩踏み出した途端、肺の奥を刺すような冬の冷たい外気が、コートの襟元から容赦なく滑り込んできた。 アルコール消毒液と、アイロンの当てられたシーツの匂いが、鼻腔から急速に薄れていく。 私は首元のマフラーを少しだけ引き上げ、冷え切った空気を深く吸い込んだ。「……荷物」 隣で、低く、少し掠れた声がした。 振り返るより早く、私の右手に提げていたボストンバッグの持ち手に、大きな手が伸びてきた。 長くて骨ばった、見慣れた指先。 しかし、その手は彼の左手だった。 視線を上げると、透さんがわずかに眉を寄せたまま、私からバッグを奪おうとしていた。 濃紺のウールコートの下、彼の右腕はまだ厚いガーゼと包帯で覆われ、胸の前に固定されている。火災の熱が皮膚を焼き切った生々しい痕は、まだ治癒の途中だ。 自分の身体が万全ではないのに、彼の中の何かが、反射的に私の重さを肩代わりしようとしている。「だめです」 私は持ち手にかかった彼の左手に、自分の左手を重ねて止めた。 冷たい外気に晒されていたはずなのに、彼の指先からは微かな熱が伝わってくる。「重くありませんから。着替えが数枚入っているだけです」「だが、君も退院したばかりだろう」「透さんこそ、その腕でバランスを崩したらどうするんですか。まだ無理をしていい時期ではないと、お医者様も仰っていたはずです」 私の言葉に、透さんはかすかに息を詰まらせた。 彼は自分の右腕に視線を落とし、それから、私がきつく握りしめているバッグの持ち手を見る。 透さんは重ねられた私の手をしばらく見ていた。やがて、ゆっくりと指先の力を抜いた。「……わかった」 左手が、名残惜しそうにバッグの持ち手から離れる。 私は彼の手が完全に引くのを待ってから、バッグを提げ直した。「本当に行くのか」 病院のロータリーへ向かうタイル張りの道を歩き出しながら、透さんが
カチリ、と。 万年筆のキャップが閉まる硬い金属音が、耳の奥で反響を繰り返していた。 水科凛花(みずしな・りんか)としての呼吸を整えようと、ゆっくりと肺に空気を送り込む。 だが、冷たく管理された天野家の執務室の空気は、吸い込めば吸い込むほど、別の記憶の匂いを喉の奥へ引きずり出してきた。 古いコピー機が吐き出す排熱。 トナーの焦げた匂い。 そして、誰にも言葉が届かなくなった、あの会議室の後の、乾ききったオフィスの空気。 万年筆をデスクに置いても、指先の震えは止まらなかった。 頭に残った橘日和(たちばな・ひより)としての記憶が、終わりのない悪夢のように、再び生々しい輪郭を結び始め
正しい時系列を、前後関係を残そうとしただけなのに。 視線を泳がせ、斜め向かいに座る紗耶を見た。 彼女なら、わかってくれる。 あのチャットのやり取りの全貌を、彼女は知っているはずだ。「紗耶……」 すがるような思いで、微かに声を絞り出す。 だが。 ゆっくりと顔を上げた紗耶の瞳には、同情も、申し訳なさもなかった。 あるのは、怯えた小動物のような震え。「私……知りません」 震える声が、会議室の静寂に落ちた。「日和さんが……橘さんが、勝手にやったことです。私は、ただ、確認をお願いしただけで……こんな隠蔽工作みたいなこと、知りませんでした」 頭の中が白くなる。 紗耶の目から、
◇ カチャ、ターン。 エンターキーを叩く、乾燥したプラスチックの音。 古いコピー機が吐き出す排熱と、トナーの焦げたような微かな匂い。 喉の奥には、紙コップの底で冷え切った、安物のインスタントコーヒーの酸味がこびりついている。 モニターの青白い光が、顔の輪郭を冷たく照らし出していた。 橘日和。二十九歳。 中堅企業の広報担当。それが、数年前まで自分に割り当てられていた名前と肩書きだった。 画面に並ぶのは、無数のタイムスタンプと、社内チャットのログ。 『限定公開前の顧客リスト、誤送信されてるっぽいんですけど』 『え、マジ?』 『やばい、すぐ上に上げないと』
鼻の奥に、かすかなインクの匂いが残っていた。 手の中の金属製の万年筆は冷たく、指先に重い。 視線の先には、クリーム色をした分厚い上質紙。 その最上部に、逃げ場を塞ぐような活字が印字されている。 『婚約契約書』 黒光りする無垢材のデスクは、よく磨かれていて、触れれば指先まで冷えそうだった。空調の微かな音だけが、広い部屋の静けさに沈んでいる。 息をすることさえ、この整いすぎた空間では場違いに思えた。 万年筆の軸を、無意識に指の腹で転がす。 握るたびに、手のひらの熱が少しずつ奪われていく。その重みは、これから背負うものの重さそのものだった。 署名欄の片側には、す